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この週末、学校時代のクラスメイト、女ばかり40人以上が集まる機会があった。 近年になって会って飲む機会も増えたので、半分の人とは時々顔を合わせているが、半分は久しぶり。中には卒業から30年来、初めてという人も何人かいた。 基本的に人見知りの私にとって、このバランスは良かった。馴染みの顔があるから、安心して久し振りの人との再会も楽しめる。何のきっかけもなく、自分の「過去」と向き合うのは勇気がいる。 仕事関係のパーティでも、あまり話をしたことのない人ばかりのパーティに一人で行くのは苦手だ。 不思議なのは、何年も会っていなくても、まるで親戚か何かのようにすんなりブランクが埋まること。 幼稚園から大学までの一貫校なので、最も長い人同士で16年、私のように中学から入った人は8年。人間形成の多感な時期を共に過ごした人同士というのは、そう簡単に絆が断たれるものではないらしい。 「変わらないねえ」の挨拶が飛び交う。体つき、表情、話し方、ましてや人の性格というものはそう変わらないなとしみじみ思った。 もちろん、その人の家庭環境、仕事の環境が与える影響は小さくないが、それ以上に変わらないものの方が大きい。 実際のところ、体型が極端に変化したという人もいなかった(お互い同じく年を重ねているから、そう見えないだけ?)。 性格というのは、先天的なものが大きいから当然だろうが、同時に周りの人との関係において成り立っている面も大きく、同じメンバーのなかでは同じ役割を果たしてしまうのかも(組織や団体行動の苦手な私は、それが嫌でかつては距離をおいていた)。 女50歳。それぞれの人生経験を経て、皆まるくなり、他人のことも受け入れられるようになっている。 仕事や環境は異なっていても、それぞれの道を究めれば究めるほど、共感できるものが増えてくるような気がする。 これは私たち特有かもしれないが、お互いの距離感が均等になり、特に親しい人、苦手意識のあった人との落差もあまりなくなってきた。これはいろいろな意味で、女としての生々しさが希薄になってきたことと関連している(それはそれでちょっと寂しい気もするが)。 かつて誰かの心ない一言がずっと傷となって残っていたとしても、その一言は本当は自分に向けられたものではなく、その言葉を発した人自身の心の問題であったことも、だんだん分かってくるのだ。 皆で仲良くっていうのもどこか嘘っぽい、という疑念をつい持ってしまわなくもないが、変に詮索して闘う必要もないのが、根っこを同じとする「同郷」ならではの関係なのだろう。 |



