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サイモン・マクバーニー「春琴」
舞台を見て初めて嗚咽しながら泣いた。別に物語りが感動的だったのではない。何故泣いたのだろう。何故だかどうしようもなく涙が止まらなかった。
 立て込んでいる仕事のスケジュールの合間を縫って見に行った「春琴」。谷崎潤一郎の「春琴抄」を、サイモン・マクバーニーが10年越しの構想を経てついに舞台化した作品だ。「春琴抄」というもののまったくの前知識ナシに、サイモンの演出を見るためだけに行ったようなものだった。しかも観劇後すぐに名古屋移動だったので、何の気なしに行ったつもりががっつりと胸をえぐられ、「良い舞台を見た」という究極の満足感に包まれた。涙が出たのは、晩年にして左吉に初めて見せた春琴の「女心」へ瞬間シンクロしてしまったのと、「繰り返す」という行為をあらゆる趣向・角度・解釈から演出して見せたサイモンの才能への嫉妬からだったと思う。日本と日本人の持つ他には類を見ない様式美を、こんなにもあっさりと演出したのが、サイモン・マクバーニーというイギリス人だったことに、悔しさと尊敬とが入り交じった複雑な思いがラストに向かってとめどもなく溢れ出してしまったのだ。彼の演出は隅から隅まで洗練されていて、ムダやスキのないその美しさは、ある種日本の禅に通じている。禅とは哲学であるが、村上春樹の小説の中に、日常の中の繰り返し行われている行為の中に哲学は生まれる、という一説があったが、春琴と左吉の関係は、まさに永遠に繰り返される変わらぬ行為と思慕で最初から最後まで塗り込められる。それはまるで闇夜のような漆黒の黒。かつて灯りよりも闇が人間の生活の大半を支配していた頃、その闇の中でも盲目の春琴はもっとも深い闇の中に暮らしていた。哲学そのものも闇のようであると私は感じた。哲学的な思考とは闇の中での手探りに似ている。繰り返し繰り返し考えること。繰り返し繰り返しある特定の行為を続けること。そこには確かに何かが見えてくる。繰り返すことで生まれる何かが。それは様式美であったり、因習であったり、物質と物質、人と人の間に存在する”あ・うん”みたいなものだったり、そのまったくもって掴みづらい何かをサイモンは舞台という空間に見事に映し出した。それはまさに私の琴線を捕らえ震わせたのだ。悔しい〜。舞台を見て、凄いな〜と思うことはあっても、悔しい〜と思うのは初めてだ。あのとき、舞台と客席の間には確かに何かが存在していた。それと同じ何かはもう2度と味わえないだろう。だからあのとき感じたものを失いたくなくて、もしくは濁らせたくなくて、もう一度「春琴」を見たいと思えなかった。あれだけは生モノであり、あの時あの瞬間にしか味わえないもの。それこそが舞台の醍醐味。たった一度でもこういう舞台に出会えたことを、監督、キャスト、劇場、あの場の観客の方々に感謝したい。
 家に帰って久しぶりにベランダに出てみたら、梅の木がひっそりと花を咲かせていた。そのうちのまだしっかりと閉じた蕾に私は「春琴」の姿を重ねていた。彼女の蕾は左吉の中でだけ開花していたのだろうから。
 2008/03/04 00:35  この記事のURL  /   / トラックバック(0)

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プロフィール
芹澤 絵美(せりざわ えみ)
スタイリスト。静岡県生まれ。文化服装学院流通専門課程卒業。サンプロデュース入社。2000年に独立。東京コレクションをはじめ、様々なショーを手がける。また現在は、雑誌・広告等、撮影方面にも幅を広げている。

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