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マッチポンプ
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匿名と実名のメールを使い分けてストーカー容疑で裁判官が捕まる事件が発生しました。報道では“自作自演”という表現が使われていましたが、私には“マッチポンプ”という言い方の方がしっくりきます。
法務のボスから、ビジネスのスキルや知識だけでなく様々な原理、原則(美学と言ってもよいかもしれません)も教えられました。その代表格がマッチポンプです。自らマッチで火を付けておきながら、自分でポンプで消して賞賛や利得を得るという意味です。おそらく総合商社のビジネスを通じて様々なマッチポンプをご経験されたのでしょう。社内外を問わずマッチポンプ的事案にはただならぬエネルギーをもって接しておられました。
反社会的勢力の団体の方からの商品クレームはその代表事例のひとつですが、社内でマッチポンプが発生したときも、もの凄い執念でそれを糾弾しておられました。私にはちょっと派手なスタンドプレーに過ぎないのでは、と感じられるケースでも彼は見過ごすことはありませんでした。
同様に彼が嫌ったものに“ペテン”があります。私の報告や発想の仕方に対して、何度となく「君は私をペテンにかけるつもりか。」と怒鳴られました。ペテンとは、中国語で詐欺を意味するbengziが語源です。
マッチポンプもペテンも“欺く”とか“偽る”という共通点がありますが、マッチポンプとか自作自演には小学生の作文的な幼稚さや滑稽さのニュアンスがあり、ペテンには小賢しいイメージを感じます。日本の伝統用語では“イカサマ”となりますが、それには道理や義理に反するという感じが含まれますよね。
このように、法律用語では“詐欺”の範疇に入る(近い)行為も、別の表現を当てはめることで微妙なニュアンスを表すことができます。ちなみに、法律上は、
1)相手を欺罔(ぎもう)し
2)相手が錯誤に陥り
3)相手が財物や利益を処分し
4)それが騙した本人もしくは第三者の手に渡る
以上の構成要件を満たさない限り詐欺罪は成立しませんので、マッチポンプやペテンが全て法律上の詐欺に当てはまるわけではありません。
小学校から中学、高校とクラス委員長を毎年経験させていただきましたが、小学4年だったか5年のときだったか、教室内では帽子をかぶってはいけないという規則を無視する同級生の帽子を校庭の焼却炉に投げ込んで、先生から家庭訪問の際、何もそこまで…と言わしめた私にも、少しは美学のようなものがあるのかも…。 |
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契約書の落とし穴
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前々回に契約書のお話をいたしましたが、内容は店舗の転貸借契約書なのですが、表題が“業務提携契約書”となっている実際の契約書を目にする機会がありました。
両社がマインドレベルで共鳴しあっての契約と伺いましたので、それはそれでいいのですが、基本的な確認事項が脆弱であることと、かなり特殊な特約が入っていることが気になりました。
現在小売業を営んでおられる方から当該物件の転貸借を受ける訳ですが、原契約書の内容の確認ができていません。原契約が、旧の借家契約なのか定借なのか、さらには転貸借禁止条項はないのか、そもそも契約当事者に当事者能力はあるのか、など心配なことがいくつかあります。
家主さんが年配の方だから人と合うのがいやなのでということで、オーナーとの面会もできておらず、登記簿の閲覧もしないままの契約となってしまったようです。
また、更新可能な10年の定期契約なのですが、中途解約の場合に解約を申し出た側が数百万円のペナルティを支払うという特約が入っています。家主の側にもペナルティ義務があるということと、半年間の催告期間のリスク(家賃)以外にも10年未満の解約に際し借家人側にも大きな負担となる特約です。家主の側にもペナルティということには貸す側の意気込みを感じますが、反対に借りる側が必要以上に重たいリスクを背負わせれている感が否めませんでした。
よく聞く言い分に、「お互いに波長が合って、信頼しあっているのだから契約書など要らない。」という趣旨の内容がありますが、企業法務的には全く正反対のスタンスをとらねばなりません。信頼しあっているからこそ、その証を書面にしたためておくのだというスタンスです。
さらには、信頼関係というものは時系列で変化するものです。仲の良かった夫婦なのに離婚の調停で凄惨なバトルを繰り広げる例も少なからずありますよね。
法務部時代のボスに結婚式の主賓をお願いしたのですが、彼の教えは次の通りでした。「契約書には平常どおり上手くいっているときのことなど、それほど詳しく謳う必要はない。お互いにすれ違ったとき、さらには究極のすれ違いである別れるときの条件については、こと細かく決めておく必要があるのだ。すなわち契約書とは別れの条件をしたためた書面なのだ」と。
結婚を間近に控えた25歳の若造には、あまり深い意味はわかりませんでした。 |
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メタファー
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経営学に限らず、様々な学問の分野や実務の場面で役に立つのが“メタファー”です。
メタファーとは、“隠喩”とか“暗喩”のことで、洋の東西を問わず高度なテクニックが古く存在しています。
メタファーのアカデミックな定義は、次の通りです。
1)直面する事実の本質的構造を理解した上で
2)同じ構造の別の事例を検索、表現することで
3)理解の促進を図ること
先日、店頭のMDカレンダーと販促プランのミーティングの場で、こんな話になりました。盛夏を前にして、店頭販売の企画を練りたいのだけれど、あれは去年やったし、これはもう飽きられているだろうし、ネタが尽き果てた…と。
そこで、私から一言。
提供する側のプロが陥りがちなパラドックスがあります。実は消費者は今年もそれを待っているにも関わらず、サプライ側がマンネリ化してしまっていて、奇をてらった策を弄して結果的に顧客の支持を得られないという現象が、まま発生します。
数十年の長きにわたって支持されている“水戸黄門”のPM8:45の安心感たるや、何にも代えがたい価値がありますよね。また、最近の成功番組では“ごくせん”がありますよね。全てストーリーは見えているのですが、絶対に期待を外してくれないオチにリピーターは納得、満足しているのです。
ただ、黄門様や助さん格さん、弥七などが代々変わっていき(由美かおるだけは不変ですね)、ごくせんではジャニーズのメンバーが代替わりするところに、変わらないものの中にちょっとした変化がありますよね。
MDの基本スキームは、“変わらないもの”と“変わるもの”の絶妙なハーモニーです。水戸黄門とごくせんというメタファーのおかげで、ミーティング出席者全員が何をなすべきか、お腹に落とすことができたのでした。 |
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契約に関する大いなる誤解
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契約および契約書にかかわる大いなる誤解をされているケースや、詳細を理解されていないケースにに少なからず出くわします。
「口頭すなわち単なる口約束でも、契約としては立派に成立している」という程度の知識は皆さんご存知のことと思いますが、少し突っ込んでいくと怪しくなる方は意外と多いのではないでしょうか?
では、問題です。
1)口頭でも契約が成立しているとなると、いわゆる“契約書”にはどういう意味と役割があるのでしょうか?
2)当事者が記名押印もしくは署名した契約書と、単なるメモやメールでの約束事はどう違うのでしょうか?
3)“契約書”よりも“覚書”の方が、簡略で法的効果も弱くなるという理解は正しいでしょうか?
さて、正解です。
1)契約は、口頭だろうが書面だろうが手段は問わず、当事者間の約束が成立した段階で実体として有効に存在するものです。ただし、その実体を目で見える形で第三者にも正確に伝えるために、何がしかのエビデンスが必要で、それを“契約書”として作成するのが無難であるということなのです。役割としては、当事者間で約束事の再確認の拠り所になるとともに、最終的には裁判所での証拠となるものが契約書です。言った、言わないの醜い争いはよく見聞きしますよね。
2)証拠能力の高低に差がつくだけで、メモやメールもちゃんとした記名押印や署名がある契約書に準じる立派な契約書の範疇に入るドキュメントです。刑事裁判は疑わしきは罰せずという原則にあるように、完全に真っ黒であることが立証されない限り有罪にはなりません。(実体は甚だ怪しいですが…)一方で、民事裁判は真実とは別の次元で、訴訟という手続の中で証拠能力の高かった方が勝ちます。より証明力の高い証拠を積み上げて裁判官の心
証を勝ち取った方が勝訴するのです。誤解を恐れずに言うと、民事裁判はゲーム的要素が強いのです。すなわち、より強力なレアアイテムを持っているプレーヤーが勝つということです。
余談ですが、法律的には“記名押印”もしくは“署名”と表現するのが一般的で、“署名捺印”という表現は俗語でございます。
3)書面のタイトルは、契約の実体や効力には一切関係がありません。したがって、“契約書”だろうが、“覚書”だろうが“確認書”だろうが、タイトルは何だってかまいません。“契約書”と表題が打ってあっても中身が約束事になっていなければ、それはただの紙切れに過ぎません。
“行列のできる法律相談所”は高視聴率をマークしていますし、NHKの“バラエティ笑百科”は20年以上も続いている長寿番組です。人々が、正確な知識を持ち合わせてはいないけれど、実は身近だったり切実だったり関心があったりするのが法律案件ということの表れでしょうか?
裁判員制度の導入も間近に迫っています。少しでも皆さんの注意と関心を喚起し、お役に立てる法務事案を取り上げることができればと思っています。
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現代アート
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加護野ゼミOB研修旅行記の最終稿です。
NTNさんと林原生物化学研究所さんの見学および、そこから得られた知見をベースにしたゼミナールで過ごした一日半のあとは、ベネッセハウスと直島にて現代アートを堪能いたしました。
まずは、ベネッセハウスから。話には聞いていたのですが、郷里の岡山の地元(正確に言うと香川県ですが、岡山県の宇野港からフェリーで20分ですので)でもあり、現住所の神戸からも中途半端に近いことから、わざわざ行って見ようという気が起こらないまま今に至っていました。
安藤忠雄さんの建築物は、前職やコンサルティング先のオフィスにて何度か経験しており、決して使い勝手が良いものではない(建築として否定している訳ではなく、空調が効きにくいとか仕事をする上での導線が決して良くはないという意味です)という印象だったのですが、あにはからんや、極めて快適な二泊を過ごすことができました。
オフィスという視点ではなく、リゾートやミュージアムという立ち位置から経験すると、こうまで印象が異なるものかと新たな発見をいたしました。部屋にはTVなどという野暮なものはなく、BOSEのラジオがポツンと一台。とてもお洒落で快適な空間でした。
食事は、和洋、夜朝とも、瀬戸内の素材の新鮮さもさることながら、入っているレストラン、シェフのセンス、腕前とも超合格点。トロッコに乗ってゴトゴトと山頂まで上ったところにあるバーも素敵でした。
現代アートとの出会いは、95年のNYの近代美術館においてでしたが、そのときとは全く異なる感動が直島ではありました。NYでは、何かとても人為的なテクニックばかりが前面に感じられて、インダストリアルなインパクトは感じたのですが、マインドに響くようなそういう心の慟哭を強く感じることはありませんでした。ところが直島では、人間の息吹というか、生活観というか、そんななかで共存、自己主張しているアートが絶妙なコントラストで私の体に飛び込んできました。
地中美術館もベネッセミュージアムもよかったのですが、特に、街中の民家の中に点在する“家プロジェクト”がそのような印象を決定付けたのではないかと思います。
一泊ではちょっと強行軍になりますので、できれば二泊してじっくりと島全体を堪能してみてください。私も島内の鑑賞には半日しか使えなかったので、そう遠くないうちにリピートしたいと考えています。
余談ですが、当日は打ち合わせを兼ねてご滞在中の安藤氏ご本人や、撮影のために来られていた福武總一郎氏のオーラにも触れることができ、大きな収穫のあるゼミ旅行を終えることができました。
いつもながらの節を聞かせていただいた加護野先生、遠路より集まった同窓の諸氏、また新たな試みとして加わっていただいた05年組の皆様、有意義な三日間をありがとうございました。次の金沢の製薬工場視察を楽しみにしています。 |
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