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今日はちょっと重い話になりますが、どうぞお付き合いください。 今から63年前の3月10日未明、墨田、江東、台東の一帯は、2時間に渡って集中的な大空襲に遭遇しました。祖母の話によると、最初は雨かと思ったら油のようなものが降ってきて、それから一斉に爆撃が始まったそうです。周囲からの攻撃で、袋のねずみのようにされてしまったみたいです。同じ場所で父母の両親(自分から見て祖父母)は運命が分かれてしまいました。 ここで、父は両親、妹3人を失いました。小学校1年生のときでした。。。 当時を知る人から聞くと、大きな繊維工場だった父の家は店の人たちとみんなで逃げたそうです。小さな妹達を連れて逃げるのは大変だったと思います。本当は火の方へ向かって逃げればよかったのですが、暑さに子供は参ってしまいます。火から逃れながらも最後は火に囲まれてしまったのではないかと、考えれば胸がつぶされる思いです。 たまたま、父だけが伊豆の伊東の祖父母のところにいて難を逃れたのです。伊豆半島から見る東京方面は、夕焼けのように真っ赤だったそうです。 母は一人娘で、2月末から静岡の由比(祖母の実家)に祖母と里帰りしていたそうなのですが、祖母が母に「一緒に東京に帰る?」と、聞いたところ、「私はここにいる!」と、言ったので置いてきたそうです。その数日後が大空襲となったのです。 祖母は「あの大空襲の中で小さな子供を連れて逃げるのは無理よ。もし、あの時に連れて帰ったらみんな死んでたわ。。。」と、言っていました。 「お祖母ちゃん、良く助かったね。どうして?」と、自分が聞くと、「お父さん(祖父)が私の手を引っ張って逃げながら、『京子ちゃん(母)がいるんだぞ!』と何度も言われたからよ。」と、いつもとは違う怖い顔で話してくれました。 当時6歳の母も祖母の実家で、真っ赤な東京を見ながら「お母ちゃんが、死んじゃう、死んじゃう!」と泣いていたそうです。 母の両親は総武線の両国、錦糸町間の線路脇で助かりましたが、一晩中、炎にあぶられて着ていた服は炭化して裸同然になっていたとの事です。目も殆んど見えず、二人で歩いて御茶ノ水まで行き、開いていた薬局で目薬を買おうとしたところ、そこのご主人はとても驚かれて目薬と、おにぎりを下さったそうです。戦後、祖母はそのお礼をしたくて付近を方々探したそうですですが、とうとうわからなかったと言っていました。 すべてを失った日が、今日なのです。昨夜から、我が家では仏壇にお水、ジュース、おにぎり、お菓子をたくさんお供えします。今の自分があるのも、尊い犠牲があったからこそ。感謝の気持ちを忘れない我が家では大事な一日です。 |
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