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オタク第2世代の憂鬱

 最近、経済産業省が、日本のモノ作りの方向性として「感性価値」を打ち出したのを見て、なんだか懐かしい気持にさせられた。「高度消費社会において『モノの価値』とは『使用価値』や『労働価値の集積』ではなく、『記号』として存在すると、ジャン・ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』のなかで指摘している」なんてことを、エラそうに話していた大学院生時代を思い出したからだ。
 そして思い返してみると、早くからこの「感性価値」をビジネスのコアにおいていたのが、堤清二率いるセゾングループだった。“アンチ・ブランド”としての「無印良品」などは、他の商品との差異を記号化することで、いかに「価値」を生み出すかの好例だろう。
 しかし、ボードリヤールが、記号が価値として流通する高度消費社会を批判していたのに対し、日本のマーケッター諸氏は、「これは新しい視点だ。使える!」と飛びついた。日本お得意の勘違いである。ところが最近、その当事者と思われていた堤清二(=作家・辻井喬)が『新祖国論』(集英社)のなかで、この風潮を「マーケティング病」と痛烈に批判しているのが面白い。
 さらに上野千鶴子との対談『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)でも一種の自己批判とも思える記述がチラホラ。(ちなみにこの本は、上野千鶴子の辻井喬へのヨイショがすごい。思わず『なんだコイツは?』と江頭2:50風ツッコミ)。
 で、なにが言いたいのかというと、いまさら「感性価値」といっても、それはすでにこれまでも産業界では当たり前に追求されていることだということだ。それどころか、最先端では、その批判が始まっていることを忘れてはいけない。
 もうひとつ例を挙げよう。いまや日本が世界に誇る「感性価値」のプラットフォームとなった「オタク文化」でも、オタキング・岡田斗司夫が『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書)のなかで興味深い指摘をする。
 岡田によると「人生を捨てて趣味人として生きる」オタク第1世代(現在の40代)や、「(オタクとして)熱くアイデンティティーを語る」オタク第2世代(30代)と違い、オタク第3世代(20代前半)は、「生まれながらのオタク文化消費者=金をむしられるだけの存在」となっているという。
 そして、かつてのオタクが持っていた共通文化、あるいは相互理解という幻想が失われたと指摘する。言い換えると、文化としての批評性を失い、単に個人的な快楽に堕しているわけだ。
 てなことを考えていると、今度は村上隆のフィギュアが14億円で売れたとのニュース。まったくいやになる。村上隆こそ、欧米にとって未知の日本文化を「差異の記号」=「価値」として現金化している輸出業者だ。漫画原作者で評論家の大塚英志は、あるトークセッションで「現代美術のパチモノの村上隆は尊敬しないし、潰していく」と言ったそうだが、まったく同感。
 しかし、こういった状況に鬱々としているのは、私が「熱くアイデンティティーを語る」オタク第2世代だからだろう。いまの若いオタクは、村上隆そのものを知らないし、知っていても素直に「スゴイ」とかいうんだろうな。やっぱり「オタクはすでに死んでいる」。
 と思っていたら、今度は岡田斗司夫『オタク学入門』が新潮文庫に入ったことを知り、早速購入。文庫版付録で岡田と富野由悠季の対談が付いていたからだ。
 対談で富野が開口一番「『オタク学入門』を読ませてもらいましたよ。でも、僕に言わせると、今やオタクは人畜無害以前の“消費者”でしかないんじゃないかと思う。悪いけど、オタクを論じている場合ではないと思うのよ。現実をご覧よ。今や、地球は住めないような荒れ果てた状態になってきているでしょう。そういう状態に地球を陥れている、恐ろしい存在についてこそ、時間を費やして話し合うべきだよね。オタクは、ぬくぬくとした囲いのなかでしか生きられない存在だからね。そもそも、今はそんな安全な世の中じゃないと思うよ」と、ちゃぶ台返しの発言。さすが御大、こんなお富さんが大好きだ。
 ということで、そろそろ差異を浪費するだけの消費社会が限界に達しつつあるのでは。モノを売るときに、本当に地球や社会に役立つものを提供するのが現代社会に求められていると思う。感性価値も結構だが、かつてのようにマーケッター諸氏の便利な道具になってはダメだ。オタクは死んだけれども、同じように今度は日本のモノ作りや社会が「お前はすでに死んでいる」となってはかなわないなと思うのである。 (M.U)
2008年05月22日(木)  05:39  / この記事のURL

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